言論空間ぼんど

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「オタクの”布教”という行為は廃れたのではないか」説、および若者にとっての”批判”について

マンガであれラノベであれ、オタクは同じ商品を3つ買うと言われていた。

いわく「鑑賞用」「保存用」「布教用」と。

そんなこともせずにオタクを名乗るなんてこのにわかが!っていう話ではなくて、

今回はオタクの「布教」について考えたいと思う。

 

僕のたどり着いた結論を先に申せば、

タイトルの通り「すでに廃れた」行為と言っていいと思う。

 

しかし完全に廃れたというわけでなく、

これまでの「布教」とはまた別の形になっているのではないかと思った次第で、

そこから、少し前に話題になった「今の若者は批判をすべてただの悪口と捉えている」という問題について、僕になり考察したい。

 

「布教」の意義

そもそも「布教」って何だと言われれば、

「自分の好きな作品を熱烈な思いと共に他者へ広める行為」で、ほぼ異論はないかと思う。

 

さてこの「布教」、される側のメリットから言えば

(デメリット「興味ないことを熱く語られてうざい」については敢えて触れないよ!)、

知らない作品に対する知見を広められるという点が一番大きいでしょう。

 

オタクたるもの面白い作品をどんどん発掘して

それらが自分の血となり肉となる瞬間がたまらなく良いじゃないですか。

 

僕はもう、人から聞いて知った作品を

さも自分が発掘した風に発言する傾向があるので、

他者の布教は踏み台として大いに利用させていただいております(ひどい)

 

そして肝心の布教する側のメリット。これは2点あると考えてます。

ひとつは当然「この作品を愛する同士を増やしたい」という点。

もうひとつは「オレこんな作品知ってるんだぜ、すごいだろ」と自慢できる点。

 

特に2点目は自分自身のことを顧みた時、大いに当てはまる事柄です。

 

結局は自己顕示欲の現れがこの「布教」という行為の本質でしょう。

だって顔とか服のセンスとかで褒められたことないんだから、

こういうところで「すげえ」って言われたいじゃないですか。

それがオタクの本分じゃないですか。

 

ところがそれが最近では廃れてしまった。

どうしてか?

 

フロンティア開拓から村社会の形成

前項で「布教」を自己顕示欲の現れと定義したわけだけど、

単にそうだとしたら廃れる道理がないんですよ。

今や各種SNSが自己顕示欲垂れ流しのぼっとん便所と化している中で、

「布教」こそ流行るにふさわしい行為ではないですか。

 

しかし「布教」は廃れたのです。

厳密に言えば、「布教」の意義である「発掘」と「育成」が廃れたというべきでしょう。

 

自己顕示欲を満たすというのは副次的な要素に他ならないんです。

そもそもなぜオタクが「布教」をしなければならなかったかと言えば、

同志を見つけることがきわめて困難だったから。

 

今よりオタクに対する風当たりが強い中で、

不用意にマニアックな知識を披露するわけにはいかない。

オタク仲間を見渡せば、自分の好きな作品を知っている人がいない。

 

そうなれば、仲間を同じ作品が好きな同志に育て上げるしかないんですよ。

それが「布教」の一番大きな目的です。

(自己顕示欲は第一目的に寄り添う形で満たされるイメージですね)

 

”まだ見ぬ作品を「発掘」し、同好の志を「育成」する。”

「布教」という行為を掘り下げてみると、

上記のような構成要素があることにたどり着きました。

 

「布教」という行為である「発掘」と「育成」は廃れました。

もっと厳密に言えば、「育成」が廃れ、「発掘」の必要がなくなったのです。

 

「育成」が必要ない理由は言わずもがな、

同好の志を簡単に見つけられるSNSが登場したからです。

 

前述のような「よく知った仲間を同じ趣味に染め上げる」ではなく

「同じ趣味を持つ知らない人を検索する」が今の主流ではないでしょうか。

 

同じ作品を知っている者同士がその作品について語り合う。

そしてまた別の人(同一人物である場合も)と別の作品について盛り上がる。

 

ここで「発掘」の必要がなくなったという点について触れるならば、

すでに自分の好きなものの範囲で自己顕示欲が満たされてしまうから、

わざわざがっついてまで知らないものを知る必要がないんじゃないかと思うわけです。

 

だって「こんな作品知らないでしょ」より「この作品のこのシーン好き」の方が

より多くのいいね!をもらえるに決まってるんだから。

(当然アニメなどオタク文化が以前よりメジャーになって、

それなりに有名作を見ていれば日常会話は網羅できるからというのもあるだろう)

 

ちなみにこの点については多数派はそうであろうという僕の推論であり、

僕みたいな知らない作品を掘り返すことが好きな人だっているだろう。

この辺は10代~大学生の人から実地調査すべきだよね。

 

また以前からそういう層がいたことも認める。

しかしそれは好きなドラマとか映画で語り合うリア充的な人種のコミュニケーションであり、

それに代わって「布教」をするというのがオタクである、という前提で捉えていただければ幸い。

 

とはいえ、

「布教」という未開地をオレ色に染める行為から

同志を集めて語り合う”場”を見つけるということに主眼が置かれるようになったということで、

この項目での結論としたい。

 

ここまで考えて頭を過ぎったのが、

冒頭でも書いた「最近の若者が批判をすべて悪口と捉える」という問題についてだ。

「布教」という行為について考察したところから次項でその問題について切り込みたい。

 

批判を受けるということはオタクにとって日常茶飯事でなかったか

一応事の発端となった記事と、反響をまとめたTogetterを引用しておく。

anond.hatelabo.jp

 

togetter.com

 

布教という行為にはそもそも批判がつきものである。

(ここでの「批判」は端的に悪口って意味で捉えてほしい)

 

いわく、

「どうせ〇〇みたいな日常ものでしょ」

「どうせヒロインが最後に死ぬんでしょ」

「どうせ主人公が無双してハーレムになるだけでしょ」

など

 

これに対して

「いやいやこれは〇〇な設定が斬新なのであって、従来の日常ものは~」

「王道ストーリーなんだけど、場面の見せ方がすごく上手くて~」

「そういうタイプの作品だから仕方ないけど、敵との頭脳戦が一番の見どころで~」

など、好きな作品に一矢報いようと言葉を尽くすことが日常であったと思う。

 

リア充殿に至っては「そんなのただの絵じゃん」と笑い交じりに宣うものだから

「絵に感動できるほど感受性と想像力が豊かなのです!あなたとは違うんです!」

と、堂々たる態度で反論する妄想をする10年前の自分がいたりするわけです。

 

さらには作品考察、俺の嫁論争など、

オタクはそもそも批判と反論でせめぎ合う言論戦士みたいなところがあったと思います。

(美化しすぎた、饒舌な変態くらいがちょうどいいか)

 

で、ここからはあくまで「布教」を失ったオタクという観点から

上記の問題を考えるとします。

(引用記事内でも述べられている通り日本の教育体制とかいろいろ要因が絡んでいると思うので)

 

好きな者同士で集まって、分かり合えることが前提な間柄では

批判(これは問題点の指摘などポジティブな意味合いで)は生まれようがないです。

 

僕も自覚あるけど理屈とか抜きに盲目的に大好きな作品って欠点が見えないんですよね。

あえて悪い点を指摘しないし、見て見ぬふりくらい余裕でしちゃう。

(あるとすれば、すでにネタと化してる欠点を笑い合うくらいか)

 

それがデフォルトだとすれば、

どのような文脈で放たれた「批判」もすべて、

その会話の前提を覆してしまうわけです。

 

分かり合える前提なのに意味の分からない発言なのだから。

そのグループの標準から外れたものはすなわち敵です。

”空気が読めない”という烙印が押されて煙たがられるのでしょう。

(この辺こそ中高生のコミュニケーションを生で観察したいところなんだよな)

 

で、問題なのは、当然”分かり合える仲間”から異分子を排除することも

”分かり合える仲間”を取捨選択することも極めて容易な点です。

 

こんなの若者総ジャイアン化ですよ。

話し合う前に見えない鉄拳(垢ブロ)が飛んでくるわけですよ。

 

そして殴り合うどころか一方的に殴って終わることしか知らないまま

大人になってしまうのです。

 

極端に言えば、今でも一定層いる「1か0」「All or Nothing」な思考の人が、

きっと今より増えるのではないか。そんな危惧を抱いてます。

 

さて「批判=悪口」と捉えてしまう環境と

批判に晒された時のリアクションについては、

すでに他の方々が言及している内容と大差なかったかと思われます。

 

では最後に「布教」を失ったオタクが

好きな作品を賞賛する時に直面するであろう弊害について

次項で詳しく語るとします。

 

「批判しないで」の対義語は「語彙力が足りない」

僕の周りの中高生たちのツイキャスに時たま訪れるのだが、

特に好きなアニメとかゲームについて語っている時によく聞く言葉があって、

それは「語彙力が足りなくて上手く言えない」。

 

「批判=悪口」と捉えるようになる要因などは前項で語ったが、

この「語彙力が足りない」というのも同じ要因に端を発している。

(もちろん、本を読まないとかそういう話も絡んでくるが今はスルーで)

 

批判に抵抗がないほど分かり合える仲とは、

つまりは語るに言葉のいらない仲とも言えないだろうか。

たとえば「ばぶみがある」だとか「尊い」とか「神」と言っておけば全員頷いてくれる、そういう間柄ではなかろうか。

(略語とか定型句が悪いとは思っていない。それは時代時代の流行りなのだから大いに乗っかってその時を楽しむべきである)

 

語るのに言葉がいらない世界。

つまり、まったく知らない人に自分の好きな作品を十二分に語れない世界がそこにあるのである。

「批判を全部悪口と捉える」ことより、僕はその点が可哀そうでならない。

 

別に嫌なこと言われて、

すぐにLINE外しとかフォロー解除とかするのは別にいいよ、知らんがな。

 

でも言いたいことを語れないというのは、

話す度胸が足りないではなく、話す術を知らないというのは、

水着を持たずにプールに行くようなものですよ。

 

陳腐な言い方をすれば、好きなことを存分に語れないなんてオタク生活の半分以上損してる!

 

 批判をしよう、語り合おう

長々と書いてきましたが、論点としては

・布教は廃れたというよりその役割を終えた。

・布教を失ったオタクは好きなことすら語れない。

という2点で伝わっていますかね?

 

オタク限定みたいな書き方で申し訳ないけど、

たぶん「アニメ」とかを別の要素に置き換えれば納得いただけるかもしれない。

如何せん僕がオタクだからそこをベースに語るのが一番やりやすかったので。

 

以下、中高生のオタクに向けて僕からの思いをいくつか

(さすがにここまで読むやつはいない気がするが)

 

やることなすこと認められる。いいね!されるなんて本来異常事態であって、

それこそSNSで発言するか北朝鮮の将軍になるかしないと得られないことなんですよ。

 

批判されるのは当たり前で、しかしそれは必ずしも悪口じゃない。

単なる悪口とそうでないアドバイス的なのを見分けるようになれれば、

今後のオタ活、ひいては今後の人生に有益な情報を得れるだろう。

 

だけど批判はつらい。へこむし。

 

僕だって今、どんな手厳しい反論が来るか、文句言われるか、びくびくしてる。

絶対へこむし、あらゆる危惧を想定して結局何一つ反応が返ってこない事態にどうせへこむ。

だけど語りたいから語ったまでだ。それでいい。 

 

また追記とか別記事を立ち上げるかもしれないが、

今日の話はこの辺で。