言論空間ぼんど

文学からプログラミングまであれこれ語る場

書き出しだけ文学論!

 小説は“書き出し”で読者を惹きつけ、続く展開でページを進めさせる。

いろんな小説を読んでいると、この“書き出し”でガツンとやられて読み進めざるを得なくなるパターンが結構あったりする。

 

というわけで、

作品の解説とか批評とかうだうだ言うのはやめて、

今回は“書き出し”だけに着目して小説を語ろうと思う。

 

 

太宰治「葉」

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

個人的な体験を先に言うと、

僕の初めての太宰体験(教科書を除く)は、高校時代に読んだ「人間失格」である。

いや「読んだ」というのは嘘で、「途中まで読んだ」が正しい。

数ページ読んで、そこに書かれていたあらゆることが心にグサグサ刺さり、

「あかん、これ以上読んだら鬱になる」

と、読むのをやめた次第である。

 

それからしばらく経ってまた太宰を読むきっかけができた。

それが太宰の短編「葉」の書き出しであった。

 

「あれ、太宰ってこんなに面白おかしい感じの人だっけ?」

世間一般の例に漏れず、高校時代の読書体験もあって、

僕の中の太宰像は常に「自殺しそうな鬱の人」だった。

 

それが意外とユーモアある人なんですね。意外だった。

 

「葉」の冒頭のいいところと言えば、一般的な太宰のイメージで始まり、

短い数文を挟んでどんでん返しがあるところ。

「どないやねん」とつっこみたくなる文章である。

晩年 (新潮文庫)

晩年 (新潮文庫)

 

 

舞城王太郎阿修羅ガール

減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心。

さすが舞城王太郎といった爆発力ある書き出し。

氏の作品を評するのに「文圧」という言葉が使われるが、

これが言い得て妙で、畳みかけるように言葉を次々と投げつけてくる、さながら暴走機関車のような文体が氏の特徴だ。

 

どちらかと言うと、短い書き出しみたいなコピーライティング的技法を得意とする印象はなかったのであるが、「阿修羅ガール」の冒頭は見事。

常套句をずばっとぶった斬った感が心地よい。

阿修羅ガール (新潮文庫)

阿修羅ガール (新潮文庫)

 

 

内田百閒「阿房列車

阿房と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考えてはいない。用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。

計算し尽くされた“阿房”な文章です。

阿房列車」は、電車大好き百閒先生が“ちッとやそッと”と電車に揺られて旅をする随筆。

つまり旅そのものが本作の目的なのだ。

それをわざわざ冒頭でロジカルに説明するこの阿房らしさ。

三段論法めいた書き方と、結論の肩透かし感。

真面目な顔をして、当たり前のことを言う。何もおかしいことはないけど、その行為自体がおかしいという完璧な阿房な文章。

第一阿房列車 (新潮文庫)

第一阿房列車 (新潮文庫)

 

 

町田康「告白」

安政四年、河内国石川郡赤阪村字水分の百姓城戸平次の長男として出生した熊太郎は気弱で鈍くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられない乱暴者となり、明治二十年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者と成り果てていた。
父母の寵愛を一身に享けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。
あかんではないか。

もういろんなところで触れられているから深くつっこまないけど、

やっぱ「あかんではないか」の切れ味ね。

 

講談のようなトントンと進む三人称かと思いきや、

いきなり主観が入り込んでくる。

初めて読んだ時「何やこれ」って度肝を抜かれたのをよく覚えている。

 

これまで紹介してきたものは、前提を覆すことで衝撃を与える技法だったけれど、

これは何の前触れもなく唐突に「あかんではないか」が現れる。

なかなか真似できない方法だなぁ

告白 (中公文庫)

告白 (中公文庫)

 

 

 

庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」

ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。 

本作の発表が1969年。当時の若者のコミュニケーション手段は当然電話だ。今でいうところの「親フラ」のようなあるあるネタが、この作品の書き出しである。

 

固定電話でやりとりしていた頃を思い出せば、なるほど確かにそうだと頷ける。

これを「母親の膝の上」に乗っているとするユーモラスな表現が実に洒落ている。

 

今読むと古びた感は否めないが、

文学作品ってなかなか当時の風俗を感じさせる描写がなかったりするんだよね。

そういう意味で貴重な一作の冒頭を紹介させていただいた。

赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)

 

 

ナボコフ「ロリータ」

ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。

(訳:若島正

どうってことない文章でしょ?

なんで紹介したかというと、これ英語で読むといかに素晴らしい文章であるかよく分かるんだよ。

 

ということで原文より引用。 

Lolita, light of my life, fire of my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the plate to tap, at three, on the teeth. Lo. Lee. Ta.

音読してみたら分かるはず。

こんなに読んで心地のいい文章って今まであったか!

「Lolita」と発音する舌の動きを、これまた心地のいい韻文で書きあげてしまうなんて圧倒ですわ。

 

大学時代、たまたまこの原文の方に出会い、僕はとてつもない衝撃を受けました。

もちろんすぐさま手に取りましたよ(日本語訳でな!)

 

いつか原文で読破したいと、本はあるんだけど実行できず。

ちょいちょいフランス語も登場するから難儀しそうだ。 

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

 

 

番外編・映画「スーパーエイト」

小説ではないんだけど、

ここ最近見た映画の中で一番冒頭が優れていると感じた作品がこれ。

というわけで番外編を用意した次第。

 

スーパーエイトの冒頭を要約すると

「鉄工所の事故で主人公の母親が亡くなり、その葬儀が執り行われる」

 

これをJ・Jエイブラムスはどのように描いたのか。

 

通常「何かしらの事故が起こった」ということを表現するとしたら、

作業員たちが「おい危ないぞ!」とか言っていると煙とか出てきて、

「まずい逃げろ!」と言った瞬間、ドッカーン!

なんてのがオーソドックスなやり方ではないだろうか。

 

本作は対照的に、ものすごく静かに始まる。

鉄工所の入り口が映し出され、そこには「無事故達成記録〇〇日」という表示がある。(運送会社の入り口とかによくあるやつ)

 

その表記を、作業員がパネルを変え「1日」に戻すところが最初のシーンだ。

 

もう感心しましたよ。

こんなにシンプルに事故を表現できるだなんて!

 

続く葬儀の場面でも、主人公、および登場人物たちのパーソナリティがよく描かれており、幕開けの場面としては完璧ではないかと。

表現の方法という意味で優れたシーンではないかと思われる。 

スーパーエイト (字幕版)
 

 

 

 

というわけで、小説の書き出しのみ、紹介してまいりました。

本編の内容は千差万別ならば、冒頭だって三者三様。

特に小説を書くときに一番苦心するのが冒頭だから(僕だけか?)、

これらは大変勉強になります。

 

内容ばかりでなく、少し観点を変えて鑑賞するのもいいことでしょう。

いやぁ、ほんと、小説って素晴らしいものですね(淀川ぼんど)